橘芳 本との交友

読んだ本の整理を兼ねた本との交友録です。

久坂部羊『老乱』

約一年ぶりに読みました。

昨年の今頃は、病院で看護助手というポジションで介護の仕事をしていました。

コロナ禍のあおりを受けて仕事を失い、かつ地方に引っ越したこともあり、当時、仕事が見つかりませんでした。介護の求人が本当にたくさんあったこと、そして以前になにか今後の役に立つかと「介護初任者研修」を受けていたこともあり、「やってみよう」と派遣会社に登録したのでした。

面接当日に、初対面の派遣担当者と病院の人と面談をし、即日採用、翌日勤務という驚くべき展開でした。大丈夫なのだろうか、よっぽど人が足りていないのだろうなと恐れをなしたのを覚えています。

仕事初日から驚きの連続でした。目の前の光景や情報を処理するために考えることが多すぎて知識を得たいと手に取ったうちの一冊が本書です。

レビー小体型認知症(いわゆる「まだらボケ」)を発症した男性が主要登場人物として出ています。

この男性の考え方や行動と、その息子夫婦とのやりとりから、学べることがたくさんあります。そして、男性が書き綴る日記の文章が日をおうごとに崩れていく、例えば、促音(小さい「つ」)が抜けたり、平仮名が多くなっていったりするところが読んでいて怖いです。

ただ、「怖い」で終わらせるのではなく、老いをどう受け止めるかが重要なのだと思いました。老いていくことは避けようがないことで、じゃあそれを否定せずに、どうやったら少しでも遅らせることができるか、自分におこった場合はどうつきあっていくか、できるだけ生活の質を下げないで維持していけるか、という事前の対策が非常に大切だと思いました。

私が派遣された病院は終末期医療を施す病院でしたので、寝たきりご高齢の患者さんたちがたくさんたくさんいらっしゃいました。もうそこでは「QOL(生活の質)」なんていう概念は存在しませんでした。

言葉を発することもなく、日がな一日横たわり、手足が拘縮し、食事もとれず胃瘻や点滴で栄養をとり、尿道に管を通され尿バッグがベッド脇に吊るされてあり、介護士にルーティーンでオムツをかえられ、ベッドを上げ下げされ、体位を変えられ、週に2回ストレッチャーで運ばれ体を洗われ、看護師により血圧や体温を測られ、時にはレントゲン技師により病室でレントゲンが撮られ、モニターや酸素マスクがつけられ、etc…

例えば、人工ストーマをつけた男性患者さんはストーマ内をきれいにしている間、「情けない…」とふりしぼるような声でおっしゃっていた姿が記憶に残っています。ご家族はどう思っていらっしゃるのだろう、と思わずにいられませんでした。

病院でずっと横たわり「家に帰りたい」「何か食べたい」「水が飲みたい」などと訴えてこられる人生の先輩諸氏を見てお世話をするにつけ、私は考えこんでしまいました。

以前、文藝春秋文學界』で落合陽一さんと古市憲寿さんが対談した内容が炎上したことがあったのが頭の隅に残っていたので、この度、ちゃんと読み直してみました。

私はそれほど批判される内容であったとは思いませんでした。

老いによる終末期における安楽死」に関しては、私は言葉的にも実行する人の負担を考えても、あまりいいとは思っていないのですが、「尊厳死」や「平穏死」は、病院での光景を見たことで、これからもっと広まればいいなと思っています。

もしかすると、お2人の対談における言葉の使い方が反感を買ったのかもしれません。

例えば、古市さんの発言

P185「最後の一ヶ月の延命治療はやめませんか?」と提案すればいい。胃ろうを作ったり、ベッドでただ眠ったり、その一ヶ月は必要ないんじゃないですか、と。

私は「その一ヶ月は必要ないんじゃないですか」が文筆業の方ならもう少し違う表現なり、具体的な例を挙げるなりする必要があったのではないかと思ってしまいました。

ネットの反論記事があったので読んでみましたが、その記者は「最後の一ヶ月」をどう決めるんだ、という反論をしていました。

P185 終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですけどね。たとえば、災害時のトリアージで、黒いタグをつけられると治療してもらえないでしょう。それと同じように、あといくばくかで死んでしまうほど重度の段階になった人も同様に考える、治療をしてもらえないーーというのはさすがに問題なので、保険の対象外にすれば解決するんじゃないか。延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい。

という落合さんの発言箇所(一文だけだと初読の場合情報欠落になるかもなので多めに引用、「延命治療をして欲しい人は」を読み落とされないよう)については、「トリアージの黒タグが示すのは明らかに救命や蘇生が不可能な状態なので、それと終末期の患者とをいっしょにするのは頭がどうかしているとしか思えない。」という反論がありました。「トリアージ」という言葉が終末期医療(様々な症例の人がいるはず)の患者に結びつきにくかったのだと思います。

しかし、記者の反論内容についてですが、実際に何年も寝たきりで床ずれや、オムツかぶれでおしりにカビが生えてしまっているような先輩諸氏を見ていると、高齢による終末期における患者に対する「治療」という名の「延命措置」は果たして「救命」といえるのだろうか、と疑問に思います。

言葉の使い方を少し変えると、反論は起きにくかったかもしれません。

例えば、「ご老人たちの終末期医療での延命行為は必要なのだろうか(実際の現場の例をあげつつ)。自分だったら、それを望むのか。あれは虐待や拷問にも等しいのではないか、という意見のもと、諸外国では過度な延命は行われないようになっている。長期にわたり管をとおしての栄養がなければ生きていけないような患者さんを可能であれば家で、無理ならホスピスのようなところに移して、平穏に自然現象としての死へと向かっていくようにしていけないか。それが、患者さんたちのQOLの向上にもなり、社会保障費の削減にもなるのではないか。」などと言ったらどうでしょうか。実際、管を外せば長くはないはずです。その間、人間らしく生をまっとうできれば幸せなのではないかなと思うのです。

「長期にわたり管をとおしての」の箇所の「長期」とはいつだ、なんて反論が出るかもしれませんが、それは可能であれば本人、無理なら子供世代がそれぞれ考えればいいのではないでしょうか。私もそうでしたが、病院で働くか、当事者になるかしか終末期に関わる機会はありません。加えて、当事者も「決定や判断」を現行のシステム(「死ぬときは病院」のような)に任せていることで当事者意識が持てていないような気もします。

例えば、実際に病院で寝たきりのお母様(後期高齢)に娘さん(推定60代)がカードを書いてよこしていたのですが「早くよくなってね」なんて書いてあるのを見ると、現状の理解が全然できていないのに驚きました。手足が拘縮して、ごはんも点滴で、おしゃべりもできず、目も開いたままで、このままよくなる可能性なんてないのに…と。そのカードを見せられたお母様のお気持ちを考えると気持ちが沈みました。

そういえば、お一人だけご家族が「尊厳死を希望」されている患者さんもいらっしゃいました。その患者さんには酸素マスクはつけられていませんでしたし、私のような末端職員にもその情報は伝えられていました。病院としては異質だったのかもしれませんが。

ネットで読んだお2人の対談への反論記事は、その後に「優生思想」に結びつけていて飛躍がすぎるなどツッコミどころがいろいろありました。そして、お2人の「どシロウトの“勘違い上から目線”(原文ママ)」が政治家や官僚のプロパガンダにまんまと利用されている、というのも根拠に乏しくよくわかりませんでした。

ことほど左様に、日本ではこういう議論がなかなか難しいのでしょう。

私が腹立たしいのは、こういう批判記事を書いた人は、書いてアップして「自分の意見を知らしめたら終了」となってしまっていることです。お2人に対する質問状とか、疑問がありますのでとことん話しましょう、などと働きかけるわけではなく無責任に感じます。しかも、「命は大切だ」という「社会的道徳的に正しい」と多くの人に思われるような安全な場所からの批判に過ぎないのに、言い放って正義を達成したと満足しているとしたら記者として仕事が不足しています。

この記事を書いた後で、この記者は社会保障費や、終末期医療について何か記事を書かれたのかは知りませんが、落合さんはこの対談後にも継続して、介護現場で実際にテクノロジーを使って現場をよくしようと実践をされています。批判記事にあった「どシロウト」ではないはずです。

せっかくの議論の芽を感情的につぶしてしまう論客の多いことは非常に残念ですし、国益の損失といえると思います。

特に、私のような庶民が言っても仕方がないことを発言力のある、しかも若くして行動している人が言ってくれるのは心強いことなのに。落合さんは対談で終始「なんとかしないと、考えないと」という姿勢だったのが印象的でした。

記者やライターと名乗る人たちには、そのような発言力のある人たちの発言を正確にキャッチし分析する能力が必要というか、職業的義務があるはずです。誰しも人間ですから発言力のある人がおかしなことを言う場合もあるのでしょうから、その能力の精度を常に磨き続けていかないといけないと思います。

私は読み手として、そのような意見をたくさん読み取り、自分自身も考えていきたいです。

友人とはだいぶ脱線してしまいました。また、病院を離れてからずっと考え続けていることだったので、長くなってしまいましたが、

本書『老乱』は、自分や周りの人の将来を考えるきっかけをくれる友人です。