橘芳 本との交友

読んだ本の整理を兼ねた本との交友録です。

長田弘『読書からはじまる』再読

新年が明けましたが、あまり休めないまま早々と仕事が始まったため、実感なく毎日が過ぎています。休日の今朝久しぶりにコジュケイの鳴き声を聞いて「あれ今何月?」と混乱しました。

コジュケイといえば、以前NHKラジオ「ひるのいこい」を聴いていたときアナウンサーの方が「チョットコーイ」と鳴き声を再現していましたが、大阪の友人は「すんのかい、せんのかい」と聞こえるので、コジュケイを乳首ドリルと呼んでいると言っていました。英語圏では「pepole pray」と聞こえるそうでそれぞれの地で鳥に親しんでいるのが面白いです。

今年最初の交友録は再読の友です。以前とりあげたときは本ブログの最初でしたから、とても気負って書いていて今はとっても恥ずかしいです。改めて友の魅力を記したいと思います。

私が好きな本は何度も読める本です。読むたびに新しく気づいたり、何かしら考えたりすることがある本。そのひとつが本書です。

読書についての本は今も目につけば手に取ります。先日は落合陽一さんの『忘れる読書』を読みました。『読書からはじまる』にも、「忘れる」ことが書いてある箇所があります。

 

 P33 本の文化を成り立たせてきたのは、じつは、この忘れるちからです。忘れられない本というものはありません。読んだら忘れてしまえるというのが、本のもっているもっとも優れたちからです。べつに人間が呆けるからではないのです。読んでも忘れる。忘れるがゆえにもう一回読むことができる。そのように再読できるというのが、本のもっているちからです。

 

数多ある読書論の中で、本書は少し異質です。

人と本との関係を空から見下ろしたように、もしくは地に足をつけて手をいっぱいに広げて空を見上げたように広大に書いてあります。

苦しさを感じる日本の人たちのために(※日本語で書かれているので。本書が外国語に訳してあればその言語圏の人たちのために)書かれたことなんじゃないかと感じます。

とても大切なことが書いてあるのだけれど、一度読んだだけではその経験を自分の中におとし込めないような、スケールが大きい内容です。

でも、いいのです。少しずつ、何度も読んで自分の中に鋤きこんでいけばいいのです。

長田さんの他の著書、例えば『一人称で語る権利』なども、平易な言葉で書いてあるはずなのに、読んでかみ砕いて消化するのに時間がかかります。だけど、それを少しでも理解したい考えたいと思わされるから、また読もうと思うのです。そして本は私を待っていてくれるのです。

今回は「言葉」について書いてある箇所に心が引っ張られました。

その箇所は複数にわたるので、「言葉」についての記述は本書の内容そのものかもしれません。

自分という存在を確かにするために、自分と他を違えるために、ちからをくれるのが言葉なのだそうです。

今回読んでみて、いまの日本が全体として元気がないのは「言葉」が使えていないからかもしれないと思いました。

例えば、おそらく誰も政治家たちの言う言葉なんて信じていないでしょう。誰かが書いた紙をただ読むために下ばかり見ている無責任な覇気のない顔の人たちを見ていると、原稿を書いた人が自分で読めばいい、そもそも自分で書いたわけではない原稿を、棒読みに読みあげるだけの人たちは別に必要ないじゃないかとまで思います。

私はテレビとも新聞とも今は距離を置いています。

なぜかというと、非常に無責任に感じるからです。

それと、政治家やその後ろの見えない人たちの言うことを、そのまま流すだけのテレビや新聞を、自分が受身で聞き流していると、その無責任さに慣れてしまうかもしれないのが怖いからです。

例えばオリンピックの開催も嘘ばかりでしたし、特にコロナ禍における上記の発話者は本当に無責任に見えました。そんな発話者が、たくさんたくさんいました。

今も続いていて、これが異常なことなのだとわかっていたいと思います。

そのために、人の言葉をキャッチして識別して理解できるようにしたい、それから自分が人の言葉で揺らがないように自分の言葉をもっていたい、と強く思いました。

と、本書の魅力を語るのからずれてしまったかもしれませんが、今回本書を再読して考えたことです。

自分の生活におけるヒントがあちこちにあるので、読んだ人は、自分の触手がのびていくように本書をきっかけにして、様々な考えに至るはずと思います。

今後もつきあっていきたい大切な友人です。