橘芳 本との交友

読んだ本の整理を兼ねた本との交友録です。

寺村輝夫『王さまの料理読本ー偶然こそ成功のもとー』

ずっと読みたくて図書館で探してもなくて、あったのは前の前に住んでいた場所の最寄り図書館で「行くか?(行ってその場で読みきる)」と思いつつコロナ禍突入し、引っ越しして、縁遠くなっていてこの度やっと古本屋さんで手に入れました。

印字がなつかしい感じのフォントです。

少しずつ大事に読み進め、読み終わりに本を閉じて「読めてよかった、また読もう」と思える本でした。

内容は一冊ほぼ「卵」についてと言っても過言ではないです。

著者の卵への並々ならぬ愛を感じます。

私は初めて知ったのですが、このエッセイが書かれた当時は「ゴキブリ亭主」という言葉があったのですね。すごい響きです。

フェミニストさんたちが読むと何か物申したくなるような箇所もちらほらあるかもしれませんが、「今の価値観で何でもかんでも糾弾して心が温まるのですかい?」と初めに釘をさしておかなければなりません。

そしてちゃんと読めば結局のところ著者の考えに賛同できるはずです。

著者は物事を非常に深く考え続けられていて、奥様や子どもさんたちとの関係もきっとよいのだろうなというのが伝わります。

何より卵料理への情熱が半端ないです。奥様を尊敬し、ゴキブリを自認しつつもゴキブリなりの論理を追求し行動する姿は、素晴らしいです。

現代人に必要なのはこのパッションではないかと感化されます。

さて、本書で圧巻なのは著者が戦時中に特攻隊としていつ出撃命令されるかわからない体験をしたことが書かれている章だと思います。

(以下ほんの少し抜粋)P222

かくてその年の八月十五日、戦争はおわりました。私は喜びがこみあげてくるのを、どうすることもできませんでした。

ーもう死ななくてもいいのです!

これが喜ばずにいられますか。大日本帝国天皇陛下もありません。戦いに負けたのに、バンザイです。私は思わずしらず笑っていたようです。体でくやしそうによそおっていても、顔はほころんでくるのです。すぐに上官の、海軍兵学校出身の大尉に呼ばれて、

「日本は負けてはおらんぞ、これからだ。なのにキサマ、笑ったな!」

顔のかたちが変るほど、なぐられました。しかし、私は痛くもなんともありませんでした。口の中にふきだす血の、なんと甘かったことか。

 

十六歳だった著者の生々しい体験が言語化され、現代で読めることの有り難みを感じずにはいられません。

戦争を経験した方たちの多くが鬼籍に入られている今、私にできるのは書物から当時のことを読み取るのみです。

寺村さんは終戦のとき16歳。確か、茨木のり子さんは20歳、石井桃子さんは30代後半、幸田文さん、中川一政さんは50代、田村隆一さんも舞鶴で特攻隊として兵役、安野光雅さんも兵役していて、長田弘さんは小学生、…などと思い浮かべてみました。

終戦のときに何歳だったかで、きっと体験したことや、見方や捉え方が違うのだろうというのは興味深いですし、それを知りたいと思ったときに、当時のことや体験を考えて考えて言語化されたものは大変貴重なものだと思います。辛い作業であったことが察せられますが、ある意味それが自分の経験を昇華させる作業でもあったのかもしれません。

そして、辛い経験を忘れようとした方たちや、言語化せずに心に閉まったままだった方たちもきっとたくさんいらっしゃったでしょうから、尚さら言語化されたものは読むべしだと感じます。

私の読める時間に限りがあるので、それらが書かれた本がどうか絶版になってほしくないと思います。が、昨今、大切なものは静かに消滅していってしまうものでしょうから、できる限り自分で探していくしかないです。

寺村さんは童話作家だけあり、卵についての民話を「卵むかしむかし」という章で取り上げてらっしゃいます。

そこには現代の子どもの絵本について考えさせられる意見もあります。

以下また抜粋P124〜

(『さるかに合戦』の仇討ちの方法に卵が使われていた、というのが本筋。かにが猿に殺されるのは残酷だからケガをするだけにする、という改変過程説明の続きから)

それによって、殺されたかにの腹から子がにがはいだし、母の死を知って仇討にでかける、という物語の必然性がうすめられてしまいました。話として、おもしろくないものになってしまうのです。さらに、戦後民主主義の世の中になると、

「殺されたから仇討ちをするというのは、よくない考えかたで、悪いことをしたものは、話し合いによって改心させればいい。」

となって、そういう解説を付されて、きみょうなさるかにえほんが堂々とまかりとおるようになりました。たしかに思想としては健全なのでしょうが、むかしばなしと現実の生活を同じものとして、幼児のしつけの道具に見なすのはどういうものでしょうか。

この場面をどう改変しても、かには仇討ちにでかけるのです。この仇討ちの方法が尋常なものではありません。

……(仇討ちの説明)。まことにサディステックな仕うちではありませんか。これが、民主主義的な話し合いの手段なのでしょうか。ケガをさせられたカニのために、なぜこうまで犯人をいためつけなくてはならないのでしょうか。

だいたいが、オトナの、子どもの本批判には、部分だけをとりあげてとやかくいうことが多いのです。殺すのはわるいから話し合いへーーという思考は、同じオトナとして私にもわかるような気がします。もしそうだとしたら、さるかに話は、全体が否定されねばなりません。部分だけつくりかえて、ケガをさせ、さいごにさるをあやまらせて終ったのでは、この話全体がおもしろくなくなってしまうのです。たしかにかにが殺されるのは残酷です。殺された母がにの腹から、子がにがずくずく出てくるのはグロテスクでしょう。さいごにさるが臼におしつぶされて死んでしまうのは、解決としては単純であり、残酷であります。がしかし、さるかに話は、そういった残酷さを上まわる明るさと、聞きおわって「ああよかった」という安心感が、話全体を支えているのです。それがおもしろいのです。

 

私なりに付け加えてみると、子どもが聞きおわって「ああよかった」という安心感を抱くためにはそれを聞かせるオトナの大らかな明るさが必要なのではないかと思います。

以前、石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を読んだとき、「親だ」と感じたのを思い出しました。

また、いくら子どもの本を改変しようとも、昨今の子どもたちはオンラインゲームなどによってもっと残酷なことに触れるのでは?とも思ったり…。

それと、先に抜粋した部分は、昨今の言論のあり方について連想せずにはいられない何かがありました。何かはまだ説明できませんが、おいおい考えます。

本書は自分の体験を惜しみなく伝える芯の通ったオトナの考えに触れることができ、昔話をもう一度引き寄せてみようと思える友人です。