橘芳 本との交友

読んだ本の整理を兼ねた本との交友録です。

コロナ禍三年目の読書

最近、友人がたくさんできました。コロナ禍三年目の読書として交友を記しておきます。

一年目、新型コロナウイルスに関する本は怪しいと感じるものが多かったので何となく手はつけず、感染症の歴史やイタリア人のエッセイなんかを読んだのを覚えています。

生活のため目の前のできることをしてきて、気がつけばもう「コロナ禍三年目」。

この夏「本から情報を得たい」と強く思ったので探してみました。

図書館も利用して読んだのが以下5冊。(出版年順に)

2020年10月 西村秀一『新型コロナ「正しく恐れる」』井上亮編

2020年12月 峰宗太郎、山中浩之『新型コロナとワクチン 知らないと不都合な真実

2021年4月 宮沢孝幸『京大 おどろきのウイルス学講義』

2021年11月 鳥集徹『新型コロナワクチン誰も言えなかった「真実」』

2021年12月 峰宗太郎、山中浩之

      『新型コロナとワクチン わたしたちは正しかったのか』

 

どれも興味深く読みました。共通の内容が多く、ウイルスや、免疫について以前より詳しく頭に入ったと思います。

特に峰氏、山中氏の本ではよく見聞きする言葉について定義し直していることが多く、「なるほど」と認識を新たにしたことが多かったです。また、人が未知のことや情報に対峙する姿勢について、2冊ともに一貫した主張はその通りだと共感しました。

反面、どうしても気になったこと。

2冊目を読んでいる間ずっと、頭のいい人に煙に巻かれているような気がして、「なんでだろうなんでだろう」と考えていました。

タイトルの「わたしたち」を指すのは1冊目と同じ著者たちによる本なので、最初私は両氏のことだと思ってしまっていましたが、どうやら読者を含めた多くの人々を指すようです。1冊目で山中氏の話を「編集Y」と表記しているのが、2冊目は棒線なのもそういった意図があるのかもしれません。まえがきで、読者の「代打」になると言っていらっしゃいますが、対談のしかも2冊目なのでインタビュアーとしての存在感は消さないでほしいなと個人的に思います。

ですので、1冊目において話題にしていたことについての言及が期待したよりもされていないと思いました。例えば、ADEについての言及や、接種の目的のようになっていた「集団免疫の獲得」が「獲得できなかったこと」について接種を推進した側視点に(仮に)立ってみての振り返りなど。

それから、2冊目は山中氏が別人になってしまったように思いました。1冊目では立場や知識の違いはあれど、両氏は対等に感じていましたが、2冊目では先生に教えを乞う学生さんみたい。

付き合いが長くなったことによる馴れ合いもあるのかと思いましたが、1冊目と重複する内容が非常に多く(1冊目との重複についてまえがきで触れていらっしゃいましたが、山中氏が初めて聞いたような反応をしているのを読むと手品のタネを知って見ているような気分に…)、2冊目は新書ではなく値段も倍するので、より多くの人に読んでもらいたいというのはもちろんでしょうが、つまりは売り上げアップのためかしらなんて疑ってしまいました。先述の、私が2冊目に期待した内容と離れてしまったのはこのインタビュアーの変身もあるかもしれません。

と、あれこれ考えながら読み進めるうちに、違和感のしっぽをつかみました(B’zっぽく)。

2冊目はワクチン推進が主張の核になっているようで、峰氏も1冊目から月日が経った2冊目では慎重な姿勢からよりポジティブに意見を変えたとおっしゃっています。

意見が変わるのは何も問題ないですし、時を経てよりよく変わっていくならそれは望ましいことです。

が、ネガティブな側面には全くふれないまま話が進んでいくことにひっかかっていたのでした。

例えば、2冊目がワクチンに関する疑問を受け付けなくなってしまった様子がわかる表現があります。

(P184)

峰氏 ワクチンを2回打っても感染する「ブレイクスルー感染」がありますね。

ー- はい、ワクチンって本当に有効なのか、という攻撃材料にされることも多いですね。

 

「ワクチンって本当に有効なのか」という疑問を「攻撃材料」と言っています。

ワクチン慎重派の本も読みましたので、私自身も疑問を抱いていますが、もちろん攻撃する意図はありません。本のテーマは「わたしたちは正しかったのか」のはずですが、疑問をさしはさめないのではその考察も偏ってしまうと思います。

ちょっと脱線しますが、峰氏は、文章から察するに社会の混乱を避けたいように見受けられます。例えば、「空気感染」と「エアロゾル感染」の言葉の説明のくだりや、「専門家はTwitter上で議論せず論文を書いている」という主張などなど。特に、峰氏の立場として今後他のワクチン接種に悪影響が起こっては困るという懸念もきっとあるでしょう。

もしかすると、2冊目におけるポジティブなワクチン論調は、対立する意見がぶつかり合ったり感情をコントロールできなかったりして議論が成り立たない日本の状況を鑑みてのことなのかも、なんて思ってしまいます。ただ、議論は不可能なのでしょうか。そして、他のワクチン接種については、治験の不十分だった新型コロナウイルスワクチンと、その他の治験を経たワクチンとを、我々一人ひとりが識別し、判断するというのをやってできないことはないはずです。それをメディアが後押しすることだって、やろうと努力すれば不可能ではないはずです。

ワクチン推進の意見を持つ専門家と、ワクチンに慎重な意見を持つ専門家とがお互いの疑問を攻撃と見なさず、一緒にそれぞれの意見を新たに考えていくような、対談本を読んでみたいです。(今回読んだ5冊のうちの1冊の著者である西村秀一氏が書いていらっしゃったような「血みどろのディスカッション」ではなく。笑)

脱線から戻ります。長くなりましたが、2冊目を読んでいるときの私の違和感は、ワクチンに対するネガティブ面への言及がないまま話が進んでいったことでした。慎重意見も取り上げたほうが、よりワクチン推進の説得性が増すと思いました。

3冊目も読んでみたいです。

今回、コロナウイルスやワクチンについての本を読んでみて、専門用語や片仮名言葉が多いのでそれを一生懸命理解するために頑張りすぎるのも考えものだと感じました。

なぜかというと、頑張って苦労してやっとこ理解できたら嬉しくなって「そうだったのか!」と満足し、まるっと信じてしまいそうな危険を感じたからです。そのあとに、別の論調の本も読んでみるのは、多面的に考えるために必要だなと改めて思いました。

たくさん本を読んで、いろいろな著者の意見を聞いて知っても、いまだわからないことが多く、不安は消えません。

複数の〇〇省や企業がデータに手を加えて(国土交通省や自動車会社など)いるのを見ると、今出ているデータにも疑いが生じるのは当然です。

何を信じていいのかわからない不安な状態はこれからも続きそうです。

とても不安ですが、そういうときは、人を見ていこうと思います。~省、~会、〇〇××など団体ではなく、その中の一人ひとりを見る(ひとりを見られないとしたらそれも判断材料のひとつになりましょう)。そして、その一人ひとりが自分で考えた上で発言をしているかどうか、自らの言動に責任をもっているかどうか、もし誤りがあればそれを認めることができるかどうかをよく見ようと思います。

それを見る自分も、人に結論や判断をゆだねないで自分で考えてみる。そうすると、たとえその過程がしんどくても、納得ができます。また、他者に対しても、考えて考えた上での誤りであるなら、ただただ誤りを責め立てるなんてことはしなくてすむはずです。

そうやって自分が考え続けているということで、不安に対抗できる気がします。

先ほど少しふれた西村秀一氏の本『新型コロナ「正しく恐れる」』のインタビュアーである井上氏の意見と、それに対して西村氏がおっしゃっていたことが、本好きの胸に響きました。

(P206)

ーー文学的な希望を言いますと、コロナ禍をきっかけに人間の良い面といいますか、助け合う、共感するなどの人間性がより重視される社会へと変わっていけばいいかな、とも思います。

西村氏 そうですね。こういう危機のときに、人間社会を崩壊させないために頑張るのが文学なのかもしれません。

 

私は無力ですが、これからのことが全くわからないなかで唯一できることは読んで考えることなので、引き続きいろいろ読み続けたいです。