橘芳 本との交友

読んだ本の整理を兼ねた本との交友録です。

久坂部羊『老乱』

約一年ぶりに読みました。

昨年の今頃は、病院で看護助手というポジションで介護の仕事をしていました。

コロナ禍のあおりを受けて仕事を失い、かつ地方に引っ越したこともあり、当時、仕事が見つかりませんでした。介護の求人が本当にたくさんあったこと、そして以前になにか今後の役に立つかと「介護初任者研修」を受けていたこともあり、「やってみよう」と派遣会社に登録したのでした。

面接当日に、初対面の派遣担当者と病院の人と面談をし、即日採用、翌日勤務という驚くべき展開でした。大丈夫なのだろうか、よっぽど人が足りていないのだろうなと恐れをなしたのを覚えています。

仕事初日から驚きの連続でした。目の前の光景や情報を処理するために考えることが多すぎて知識を得たいと手に取ったうちの一冊が本書です。

レビー小体型認知症(いわゆる「まだらボケ」)を発症した男性が主要登場人物として出ています。

この男性の考え方や行動と、その息子夫婦とのやりとりから、学べることがたくさんあります。そして、男性が書き綴る日記の文章が日をおうごとに崩れていく、例えば、促音(小さい「つ」)が抜けたり、平仮名が多くなっていったりするところが読んでいて怖いです。

ただ、「怖い」で終わらせるのではなく、老いをどう受け止めるかが重要なのだと思いました。老いていくことは避けようがないことで、じゃあそれを否定せずに、どうやったら少しでも遅らせることができるか、自分におこった場合はどうつきあっていくか、できるだけ生活の質を下げないで維持していけるか、という事前の対策が非常に大切だと思いました。

私が派遣された病院は終末期医療を施す病院でしたので、寝たきりご高齢の患者さんたちがたくさんたくさんいらっしゃいました。もうそこでは「QOL(生活の質)」なんていう概念は存在しませんでした。

言葉を発することもなく、日がな一日横たわり、手足が拘縮し、食事もとれず胃瘻や点滴で栄養をとり、尿道に管を通され尿バッグがベッド脇に吊るされてあり、介護士にルーティーンでオムツをかえられ、ベッドを上げ下げされ、体位を変えられ、週に2回ストレッチャーで運ばれ体を洗われ、看護師により血圧や体温を測られ、時にはレントゲン技師により病室でレントゲンが撮られ、モニターや酸素マスクがつけられ、etc…

例えば、人工ストーマをつけた男性患者さんはストーマ内をきれいにしている間、「情けない…」とふりしぼるような声でおっしゃっていた姿が記憶に残っています。ご家族はどう思っていらっしゃるのだろう、と思わずにいられませんでした。

病院でずっと横たわり「家に帰りたい」「何か食べたい」「水が飲みたい」などと訴えてこられる人生の先輩諸氏を見てお世話をするにつけ、私は考えこんでしまいました。

以前、文藝春秋文學界』で落合陽一さんと古市憲寿さんが対談した内容が炎上したことがあったのが頭の隅に残っていたので、この度、ちゃんと読み直してみました。

私はそれほど批判される内容であったとは思いませんでした。

老いによる終末期における安楽死」に関しては、私は言葉的にも実行する人の負担を考えても、あまりいいとは思っていないのですが、「尊厳死」や「平穏死」は、病院での光景を見たことで、これからもっと広まればいいなと思っています。

もしかすると、お2人の対談における言葉の使い方が反感を買ったのかもしれません。

例えば、古市さんの発言

P185「最後の一ヶ月の延命治療はやめませんか?」と提案すればいい。胃ろうを作ったり、ベッドでただ眠ったり、その一ヶ月は必要ないんじゃないですか、と。

私は「その一ヶ月は必要ないんじゃないですか」が文筆業の方ならもう少し違う表現なり、具体的な例を挙げるなりする必要があったのではないかと思ってしまいました。

ネットの反論記事があったので読んでみましたが、その記者は「最後の一ヶ月」をどう決めるんだ、という反論をしていました。

P185 終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですけどね。たとえば、災害時のトリアージで、黒いタグをつけられると治療してもらえないでしょう。それと同じように、あといくばくかで死んでしまうほど重度の段階になった人も同様に考える、治療をしてもらえないーーというのはさすがに問題なので、保険の対象外にすれば解決するんじゃないか。延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい。

という落合さんの発言箇所(一文だけだと初読の場合情報欠落になるかもなので多めに引用、「延命治療をして欲しい人は」を読み落とされないよう)については、「トリアージの黒タグが示すのは明らかに救命や蘇生が不可能な状態なので、それと終末期の患者とをいっしょにするのは頭がどうかしているとしか思えない。」という反論がありました。「トリアージ」という言葉が終末期医療(様々な症例の人がいるはず)の患者に結びつきにくかったのだと思います。

しかし、記者の反論内容についてですが、実際に何年も寝たきりで床ずれや、オムツかぶれでおしりにカビが生えてしまっているような先輩諸氏を見ていると、高齢による終末期における患者に対する「治療」という名の「延命措置」は果たして「救命」といえるのだろうか、と疑問に思います。

言葉の使い方を少し変えると、反論は起きにくかったかもしれません。

例えば、「ご老人たちの終末期医療での延命行為は必要なのだろうか(実際の現場の例をあげつつ)。自分だったら、それを望むのか。あれは虐待や拷問にも等しいのではないか、という意見のもと、諸外国では過度な延命は行われないようになっている。長期にわたり管をとおしての栄養がなければ生きていけないような患者さんを可能であれば家で、無理ならホスピスのようなところに移して、平穏に自然現象としての死へと向かっていくようにしていけないか。それが、患者さんたちのQOLの向上にもなり、社会保障費の削減にもなるのではないか。」などと言ったらどうでしょうか。実際、管を外せば長くはないはずです。その間、人間らしく生をまっとうできれば幸せなのではないかなと思うのです。

「長期にわたり管をとおしての」の箇所の「長期」とはいつだ、なんて反論が出るかもしれませんが、それは可能であれば本人、無理なら子供世代がそれぞれ考えればいいのではないでしょうか。私もそうでしたが、病院で働くか、当事者になるかしか終末期に関わる機会はありません。加えて、当事者も「決定や判断」を現行のシステム(「死ぬときは病院」のような)に任せていることで当事者意識が持てていないような気もします。

例えば、実際に病院で寝たきりのお母様(後期高齢)に娘さん(推定60代)がカードを書いてよこしていたのですが「早くよくなってね」なんて書いてあるのを見ると、現状の理解が全然できていないのに驚きました。手足が拘縮して、ごはんも点滴で、おしゃべりもできず、目も開いたままで、このままよくなる可能性なんてないのに…と。そのカードを見せられたお母様のお気持ちを考えると気持ちが沈みました。

そういえば、お一人だけご家族が「尊厳死を希望」されている患者さんもいらっしゃいました。その患者さんには酸素マスクはつけられていませんでしたし、私のような末端職員にもその情報は伝えられていました。病院としては異質だったのかもしれませんが。

ネットで読んだお2人の対談への反論記事は、その後に「優生思想」に結びつけていて飛躍がすぎるなどツッコミどころがいろいろありました。そして、お2人の「どシロウトの“勘違い上から目線”(原文ママ)」が政治家や官僚のプロパガンダにまんまと利用されている、というのも根拠に乏しくよくわかりませんでした。

ことほど左様に、日本ではこういう議論がなかなか難しいのでしょう。

私が腹立たしいのは、こういう批判記事を書いた人は、書いてアップして「自分の意見を知らしめたら終了」となってしまっていることです。お2人に対する質問状とか、疑問がありますのでとことん話しましょう、などと働きかけるわけではなく無責任に感じます。しかも、「命は大切だ」という「社会的道徳的に正しい」と多くの人に思われるような安全な場所からの批判に過ぎないのに、言い放って正義を達成したと満足しているとしたら記者として仕事が不足しています。

この記事を書いた後で、この記者は社会保障費や、終末期医療について何か記事を書かれたのかは知りませんが、落合さんはこの対談後にも継続して、介護現場で実際にテクノロジーを使って現場をよくしようと実践をされています。批判記事にあった「どシロウト」ではないはずです。

せっかくの議論の芽を感情的につぶしてしまう論客の多いことは非常に残念ですし、国益の損失といえると思います。

特に、私のような庶民が言っても仕方がないことを発言力のある、しかも若くして行動している人が言ってくれるのは心強いことなのに。落合さんは対談で終始「なんとかしないと、考えないと」という姿勢だったのが印象的でした。

記者やライターと名乗る人たちには、そのような発言力のある人たちの発言を正確にキャッチし分析する能力が必要というか、職業的義務があるはずです。誰しも人間ですから発言力のある人がおかしなことを言う場合もあるのでしょうから、その能力の精度を常に磨き続けていかないといけないと思います。

私は読み手として、そのような意見をたくさん読み取り、自分自身も考えていきたいです。

友人とはだいぶ脱線してしまいました。また、病院を離れてからずっと考え続けていることだったので、長くなってしまいましたが、

本書『老乱』は、自分や周りの人の将来を考えるきっかけをくれる友人です。

トルストイ民話集『イワンのばか』他八篇

前回の友人『読書からはじまる』の中に書いてあったトルストイ『イワンのばか』(岩波文庫)が今回の友人です。

『読書からはじまる』には本書の8つの話のうちの「鶏の卵ほどの穀物」がとりあげられていました。

民話なので読みやすく、どの話も面白いです。

パウロ・コエーリョ『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』の最初にも本書の「三人の隠者」がとりあげられています。また、伊坂幸太郎さんの『サブマリン』にもたしか「イワンのばか」がとりあげられていたかと思います。

米原万里さんが猫を飼うとなったとき、その猫のおバカな様子を見て、「ばかだから、名前はイワンだね」と家族で決めたエピソードが書かれたエッセイもありました。

多くの人と話すときに、共有できる話があると距離が縮まる気がします。そういう本の話がいろいろな人とできれば楽しいだろうなと思います。

さて、本書の「イワンのばか」はいろいろな訳の本があるかと思うのですが、私が持っている本書はとても古風な訳です。

翻訳に使われている言葉で、おおよその訳者の年代がわかると思うのですが、古風なのがなくならないでいてくれると嬉しいです。

例えば、スティーブマックイーン主演の映画「パピヨン」で、独房(「大脱走」みたいな気楽な独房ではない)のパピヨンドガ(ダスティン・ホフマン)が木の実をこっそり差し入れしたときについていたメモの日本語字幕で「おまえを忘れないやぶにらみの男より」というのがありました。

あと昨年スティーブン・キングの『IT』を読みました。何というか、全編にわたって人間性の欠落した人の狂気や不穏さが描かれていて緊張感があるストーリーなのですが、

 「✕✕は知らぬ半兵衛を決めこんでいる」

という箇所を読んで「………フブッ」となりました。あと「借金で乳首までつかっている」という書き方も、英語ではそういう表現があるのかもしれませんが、「首までつかっている」でもいいんじゃ(苦笑)となりました。でも、私は好き。

さて、イワン。一人称は「わし」です。イワンを困らせようとする小悪魔の描写や動きが不気味に感じました。

例えば、

P15  イワンが神さまという一言を口にするやいなやーー小悪魔は、水へ石を投げ込んだように、地の中へ飛び込んで、あとには、ただひとつ穴だけがぽつんと残った。

 

シュッという音まで聞こえてくる感じです。

なんてことない文のほうがゾクッとする時があります。例えば、吉村昭氏の『羆嵐』で羆の被害に遭った女性の旦那さんの

「おっかあが、少しになっている」

なんて、めちゃくちゃ怖いです。

今日はよく脱線します。

イワンを読むと、地道に働くことの偉大さがわかります。

決して揺るがないイワンのせいで苦戦する悪魔たちがなんだか気の毒にすらなってきます。

イワンのように明日からまた働こうと思います。

本書は何度読んでも新鮮な気持ちにさせてくれる友人です。

長田弘『読書からはじまる』再読

新年が明けましたが、あまり休めないまま早々と仕事が始まったため、実感なく毎日が過ぎています。休日の今朝久しぶりにコジュケイの鳴き声を聞いて「あれ今何月?」と混乱しました。

コジュケイといえば、以前NHKラジオ「ひるのいこい」を聴いていたときアナウンサーの方が「チョットコーイ」と鳴き声を再現していましたが、大阪の友人は「すんのかい、せんのかい」と聞こえるので、コジュケイを乳首ドリルと呼んでいると言っていました。英語圏では「pepole pray」と聞こえるそうでそれぞれの地で鳥に親しんでいるのが面白いです。

今年最初の交友録は再読の友です。以前とりあげたときは本ブログの最初でしたから、とても気負って書いていて今はとっても恥ずかしいです。改めて友の魅力を記したいと思います。

私が好きな本は何度も読める本です。読むたびに新しく気づいたり、何かしら考えたりすることがある本。そのひとつが本書です。

読書についての本は今も目につけば手に取ります。先日は落合陽一さんの『忘れる読書』を読みました。『読書からはじまる』にも、「忘れる」ことが書いてある箇所があります。

 

 P33 本の文化を成り立たせてきたのは、じつは、この忘れるちからです。忘れられない本というものはありません。読んだら忘れてしまえるというのが、本のもっているもっとも優れたちからです。べつに人間が呆けるからではないのです。読んでも忘れる。忘れるがゆえにもう一回読むことができる。そのように再読できるというのが、本のもっているちからです。

 

数多ある読書論の中で、本書は少し異質です。

人と本との関係を空から見下ろしたように、もしくは地に足をつけて手をいっぱいに広げて空を見上げたように広大に書いてあります。

苦しさを感じる日本の人たちのために(※日本語で書かれているので。本書が外国語に訳してあればその言語圏の人たちのために)書かれたことなんじゃないかと感じます。

とても大切なことが書いてあるのだけれど、一度読んだだけではその経験を自分の中におとし込めないような、スケールが大きい内容です。

でも、いいのです。少しずつ、何度も読んで自分の中に鋤きこんでいけばいいのです。

長田さんの他の著書、例えば『一人称で語る権利』なども、平易な言葉で書いてあるはずなのに、読んでかみ砕いて消化するのに時間がかかります。だけど、それを少しでも理解したい考えたいと思わされるから、また読もうと思うのです。そして本は私を待っていてくれるのです。

今回は「言葉」について書いてある箇所に心が引っ張られました。

その箇所は複数にわたるので、「言葉」についての記述は本書の内容そのものかもしれません。

自分という存在を確かにするために、自分と他を違えるために、ちからをくれるのが言葉なのだそうです。

今回読んでみて、いまの日本が全体として元気がないのは「言葉」が使えていないからかもしれないと思いました。

例えば、おそらく誰も政治家たちの言う言葉なんて信じていないでしょう。誰かが書いた紙をただ読むために下ばかり見ている無責任な覇気のない顔の人たちを見ていると、原稿を書いた人が自分で読めばいい、そもそも自分で書いたわけではない原稿を、棒読みに読みあげるだけの人たちは別に必要ないじゃないかとまで思います。

私はテレビとも新聞とも今は距離を置いています。

なぜかというと、非常に無責任に感じるからです。

それと、政治家やその後ろの見えない人たちの言うことを、そのまま流すだけのテレビや新聞を、自分が受身で聞き流していると、その無責任さに慣れてしまうかもしれないのが怖いからです。

例えばオリンピックの開催も嘘ばかりでしたし、特にコロナ禍における上記の発話者は本当に無責任に見えました。そんな発話者が、たくさんたくさんいました。

今も続いていて、これが異常なことなのだとわかっていたいと思います。

そのために、人の言葉をキャッチして識別して理解できるようにしたい、それから自分が人の言葉で揺らがないように自分の言葉をもっていたい、と強く思いました。

と、本書の魅力を語るのからずれてしまったかもしれませんが、今回本書を再読して考えたことです。

自分の生活におけるヒントがあちこちにあるので、読んだ人は、自分の触手がのびていくように本書をきっかけにして、様々な考えに至るはずと思います。

今後もつきあっていきたい大切な友人です。

高野和明『ジェノサイド』

久しぶりの交友録。気づけば12月で驚いています。本は毎日少しずつ読んでいます。

そして、本書を久しぶりに再読。「超弩級のエンタテインメント(背表紙に書いてある)」を楽しみました。話を覚えているのに新たに楽しめる。なんて素敵な存在なのでしょう。

初めて読んだのは2015年。なぜはっきり覚えているかというと、人生においてまあまあ大変な時期だったからです。そんな中、本書は夢中で読ませてくれて、重たい日常、現実を忘れさせてくれました。

読後、映画を一本見たような満足感があります。そして、映画と違うのはその詳しさだと思います。演者が限られた枠と時間で表現するにはどうしても話の焦点をしぼらざるをえないでしょうから。その点、本(文字)なら世界は無限です。

全日本人に「読書習性」が備わっていると、苦しい人も元気になれるような気がします。読書にはそんな力があると実感を伴って思っています。

とはいえ、本書には目を背けたくなるような描写がいくつかあります。そもそも題名が題名ですから。

私は暴力場面が好きではないので、映画でもそういう場面は早送りします。例えば「燃えよドラゴン」ではボーロの独壇場場面を、「ポリスストーリー」は、曲は大好きで元気を出したいとき聴きますが、映画は痛そうで見ていられません。(「プロジェクトA」「蛇拳」「酔拳」あたりは大丈夫)

最近のアメリカのドラマなどは、視聴者がより興奮するようにスピードが速く、バイオレンスも過激になっているようで見ていると疲れます。ちょっと前に「リーサルウエポン」で、メル ギブソンが痛めつけられるシーンを見ているとき「今なら生ぬるいと思われるのだろうなぁ」と思う自分がいました。あと、「刑事コロンボ」をDVDでときどき見ると、テンポが穏やかで、ヒーリング効果があるように感じます。安心して見ていられるし、眠くなっていい感じです。

話が逸れましたが、本書は「戦争」についての描写が大半です。ただ、それは話の核になることで、また、今まで人類が繰り返し続けてきたことで、今も行われていること、今後も起こりうることなので、読むべしです。

また、戦争の裏側も見られます。以下はアメリカの副大統領が考えている場面。

文庫版 下P149

 …… 軍産複合体の中枢に身を置いていると、支配の論理があまりに単純なことに驚かされる。恐怖だ。戦争で儲けたい政策決定者は、他国の脅威を誇張して国民に喧伝するだけでよい。判断の根拠を国家機密の壁で隠してしまえば、マスコミもノーチェックでこの脅威論を垂れ流す。ただそれだけで、税金から莫大な資金が国防予算に回され、軍需企業の経営者たちの報酬は跳ね上がる。……

 

今起きている戦争でも、きっと同じようなことが起こっているのでしょうし、例に違わず、日本においても目に見えないところで起こっているのでしょう。

私は想像するだけしかできませんが、ただニュースを聞くだけじゃなく、疑う視点も持てたので本書を読めてよかったです。

そして、初めて読んだときも「あ」と思ったのですが、本書の登場人物の韓国に対する思想というか意見に反発する読者がきっと出て来るだろうな、という場面があります。

アマゾンレビューをのぞくと案の定です。星一つをつけている人はひっかかってしまったようです。

それで、読むのをやめてしまうのは非常にもったいないことだと思います。

特に、現代の大変な時代には、考えが違っても「意見の相違を受け止める」ところまではできるような努力が必要じゃないかしらと。本はその点、対人のためのいいトレーニングにできます。自分の軸がぶれなければ、どんな意見にも揺らがされなくなると思います。脅威としてではなく、他人の意見が捉えられるようになるというか。その軸をつくるためにも読書は大切です。

韓国に反感を持つ人も、作者のように韓国人の友人が一人でもいれば、国と一人一人の人とを分ける思考ができるはずなので、(「もののけ姫」みたいに)そこに気づければまた違う世界が見られるのではないかと思います。

茨木のり子さんも韓国について書いているという理由で、嫌う人がいるようで、そんな人は「なんて狭量なのだろう」とため息が出てしまいます。本に書かれているのは「読むあなた」の意見じゃなくて、「茨木さん」の意見なのですよよー。

高野和明さんは、『ジェノサイド』以降は本を出していらっしゃらないので、既刊の本は読んでしまいました。それと、高野さんが影響を受けた本として紹介していらっしゃった 立花隆『宇宙からの帰還』も読みました。「面白い本を書く人が紹介する本は面白い」は私の固いセオリーです。

いまアマゾンを見てみたら、なんと近日新刊が出るとのこと。タイムリーで驚いています。

このタイミングだと出版業界にいる人の宣伝ブログみたいに見えるかもしれませんが、私はただの本好きです。へろへろに忙しく過ごす日々を、読書でエネルギー補給している身として、うれしいニュースです。

本書は、新たな視点と、世界を舞台にした超大作映画を臨場感たっぷりに見ているような満足感をくれる友人です。

コロナ禍三年目の読書

最近、友人がたくさんできました。コロナ禍三年目の読書として交友を記しておきます。

一年目、新型コロナウイルスに関する本は怪しいと感じるものが多かったので何となく手はつけず、感染症の歴史やイタリア人のエッセイなんかを読んだのを覚えています。

生活のため目の前のできることをしてきて、気がつけばもう「コロナ禍三年目」。

この夏「本から情報を得たい」と強く思ったので探してみました。

図書館も利用して読んだのが以下5冊。(出版年順に)

2020年10月 西村秀一『新型コロナ「正しく恐れる」』井上亮編

2020年12月 峰宗太郎、山中浩之『新型コロナとワクチン 知らないと不都合な真実

2021年4月 宮沢孝幸『京大 おどろきのウイルス学講義』

2021年11月 鳥集徹『新型コロナワクチン誰も言えなかった「真実」』

2021年12月 峰宗太郎、山中浩之

      『新型コロナとワクチン わたしたちは正しかったのか』

 

どれも興味深く読みました。共通の内容が多く、ウイルスや、免疫について以前より詳しく頭に入ったと思います。

特に峰氏、山中氏の本ではよく見聞きする言葉について定義し直していることが多く、「なるほど」と認識を新たにしたことが多かったです。また、人が未知のことや情報に対峙する姿勢について、2冊ともに一貫した主張はその通りだと共感しました。

反面、どうしても気になったこと。

2冊目を読んでいる間ずっと、頭のいい人に煙に巻かれているような気がして、「なんでだろうなんでだろう」と考えていました。

タイトルの「わたしたち」を指すのは1冊目と同じ著者たちによる本なので、最初私は両氏のことだと思ってしまっていましたが、どうやら読者を含めた多くの人々を指すようです。1冊目で山中氏の話を「編集Y」と表記しているのが、2冊目は棒線なのもそういった意図があるのかもしれません。まえがきで、読者の「代打」になると言っていらっしゃいますが、対談のしかも2冊目なのでインタビュアーとしての存在感は消さないでほしいなと個人的に思います。

ですので、1冊目において話題にしていたことについての言及が期待したよりもされていないと思いました。例えば、ADEについての言及や、接種の目的のようになっていた「集団免疫の獲得」が「獲得できなかったこと」について接種を推進した側視点に(仮に)立ってみての振り返りなど。

それから、2冊目は山中氏が別人になってしまったように思いました。1冊目では立場や知識の違いはあれど、両氏は対等に感じていましたが、2冊目では先生に教えを乞う学生さんみたい。

付き合いが長くなったことによる馴れ合いもあるのかと思いましたが、1冊目と重複する内容が非常に多く(1冊目との重複についてまえがきで触れていらっしゃいましたが、山中氏が初めて聞いたような反応をしているのを読むと手品のタネを知って見ているような気分に…)、2冊目は新書ではなく値段も倍するので、より多くの人に読んでもらいたいというのはもちろんでしょうが、つまりは売り上げアップのためかしらなんて疑ってしまいました。先述の、私が2冊目に期待した内容と離れてしまったのはこのインタビュアーの変身もあるかもしれません。

と、あれこれ考えながら読み進めるうちに、違和感のしっぽをつかみました(B’zっぽく)。

2冊目はワクチン推進が主張の核になっているようで、峰氏も1冊目から月日が経った2冊目では慎重な姿勢からよりポジティブに意見を変えたとおっしゃっています。

意見が変わるのは何も問題ないですし、時を経てよりよく変わっていくならそれは望ましいことです。

が、ネガティブな側面には全くふれないまま話が進んでいくことにひっかかっていたのでした。

例えば、2冊目がワクチンに関する疑問を受け付けなくなってしまった様子がわかる表現があります。

(P184)

峰氏 ワクチンを2回打っても感染する「ブレイクスルー感染」がありますね。

ー- はい、ワクチンって本当に有効なのか、という攻撃材料にされることも多いですね。

 

「ワクチンって本当に有効なのか」という疑問を「攻撃材料」と言っています。

ワクチン慎重派の本も読みましたので、私自身も疑問を抱いていますが、もちろん攻撃する意図はありません。本のテーマは「わたしたちは正しかったのか」のはずですが、疑問をさしはさめないのではその考察も偏ってしまうと思います。

ちょっと脱線しますが、峰氏は、文章から察するに社会の混乱を避けたいように見受けられます。例えば、「空気感染」と「エアロゾル感染」の言葉の説明のくだりや、「専門家はTwitter上で議論せず論文を書いている」という主張などなど。特に、峰氏の立場として今後他のワクチン接種に悪影響が起こっては困るという懸念もきっとあるでしょう。

もしかすると、2冊目におけるポジティブなワクチン論調は、対立する意見がぶつかり合ったり感情をコントロールできなかったりして議論が成り立たない日本の状況を鑑みてのことなのかも、なんて思ってしまいます。ただ、議論は不可能なのでしょうか。そして、他のワクチン接種については、治験の不十分だった新型コロナウイルスワクチンと、その他の治験を経たワクチンとを、我々一人ひとりが識別し、判断するというのをやってできないことはないはずです。それをメディアが後押しすることだって、やろうと努力すれば不可能ではないはずです。

ワクチン推進の意見を持つ専門家と、ワクチンに慎重な意見を持つ専門家とがお互いの疑問を攻撃と見なさず、一緒にそれぞれの意見を新たに考えていくような、対談本を読んでみたいです。(今回読んだ5冊のうちの1冊の著者である西村秀一氏が書いていらっしゃったような「血みどろのディスカッション」ではなく。笑)

脱線から戻ります。長くなりましたが、2冊目を読んでいるときの私の違和感は、ワクチンに対するネガティブ面への言及がないまま話が進んでいったことでした。慎重意見も取り上げたほうが、よりワクチン推進の説得性が増すと思いました。

3冊目も読んでみたいです。

今回、コロナウイルスやワクチンについての本を読んでみて、専門用語や片仮名言葉が多いのでそれを一生懸命理解するために頑張りすぎるのも考えものだと感じました。

なぜかというと、頑張って苦労してやっとこ理解できたら嬉しくなって「そうだったのか!」と満足し、まるっと信じてしまいそうな危険を感じたからです。そのあとに、別の論調の本も読んでみるのは、多面的に考えるために必要だなと改めて思いました。

たくさん本を読んで、いろいろな著者の意見を聞いて知っても、いまだわからないことが多く、不安は消えません。

複数の〇〇省や企業がデータに手を加えて(国土交通省や自動車会社など)いるのを見ると、今出ているデータにも疑いが生じるのは当然です。

何を信じていいのかわからない不安な状態はこれからも続きそうです。

とても不安ですが、そういうときは、人を見ていこうと思います。~省、~会、〇〇××など団体ではなく、その中の一人ひとりを見る(ひとりを見られないとしたらそれも判断材料のひとつになりましょう)。そして、その一人ひとりが自分で考えた上で発言をしているかどうか、自らの言動に責任をもっているかどうか、もし誤りがあればそれを認めることができるかどうかをよく見ようと思います。

それを見る自分も、人に結論や判断をゆだねないで自分で考えてみる。そうすると、たとえその過程がしんどくても、納得ができます。また、他者に対しても、考えて考えた上での誤りであるなら、ただただ誤りを責め立てるなんてことはしなくてすむはずです。

そうやって自分が考え続けているということで、不安に対抗できる気がします。

先ほど少しふれた西村秀一氏の本『新型コロナ「正しく恐れる」』のインタビュアーである井上氏の意見と、それに対して西村氏がおっしゃっていたことが、本好きの胸に響きました。

(P206)

ーー文学的な希望を言いますと、コロナ禍をきっかけに人間の良い面といいますか、助け合う、共感するなどの人間性がより重視される社会へと変わっていけばいいかな、とも思います。

西村氏 そうですね。こういう危機のときに、人間社会を崩壊させないために頑張るのが文学なのかもしれません。

 

私は無力ですが、これからのことが全くわからないなかで唯一できることは読んで考えることなので、引き続きいろいろ読み続けたいです。

田中芳樹『銀河英雄伝説』

久しぶりの再読です。引っ越しで手放したので図書館で借りました。

一緒に引っ越さなかったのは、本棚の場所が限られていたのと、何度も読んで好きな場面は覚えていたのと、全巻再読しようと思う機会は今後多くないだろう、もし読みたくなったら、たいていの図書館に揃っているからいいかと思ったためです。あと、やはり戦争の話を描いているためたくさんの登場人物たちが戦死してしまい、気楽にもう一度読もうと思えない巻もありました。それに加えて私は一度の砲撃で吹っ飛ばされる名もない下級兵士たちになぜか自分を重ねてしまうのです。

とはいえ、時々無性に読みたくなります。

先々月に届いた復刊ドットコムからの配信メールに本書の愛蔵版(函入り全7集)が出ると書いてありました。やはりおもしろい作品だと思うので、減税したら買おうかな、なんて思ったのですが実現せず。

本好きとして、未だに書籍が軽減税率の対象にならなかったのが納得できていません。反駁は長くなるので書きませんが。当時、新聞は早々に軽減税率になるのが確定していた印象でした。どうしてだろうと考えて、手回しがよかったのかもしれないなと思い(政党が新聞発行していたり一部の政党よりの新聞もあったりするし)、そのように自分たちだけ助けてもらってちゃんと報道できるのかしらなんて疑ってしまい、他にも理由があって増税後に新聞とは縁を切りました(そこにいたるまでの新聞販売の方々との攻防はかなりの持久戦でした)。新聞と書籍が手を組んで、活字文化の発展に注力できるような状況にはならなかったということで残念です。書籍が軽減税率から外れたことで結果的に週刊誌のほうが報道しやすくなったのかもしれません。本好き視点の所感です。

話が逸れました。

本書を最初に読もうと思ったきっかけは、職場の先輩からの引継ぎメールの最後が「健康と美容のために、食後に一杯の紅茶」で結んであり、なんじゃこれはとネットで検索し本作品にあたったのでした。それで、書店へ行きパラパラ見ておもしろそうだったので購入&はまってしまったのでした。よく「やれやれ」とぼやく先輩でしたが、ヤン・ウェンリーの影響だったとのこと(最初は村上春樹好きかしら?と思っていました)。

再読し始めで思い出したのですが、文章が華美というか独特の言い回しがあるのがおもしろいです。

例えば、ヤンとユリアンが夕食を食べようとしていたレストランにて予約を「おこたったむくいで、その夜は小さな幸運の妖精と親しくはなれなかった。」など。

私は読んでいた当時影響を受け、家に出たゴキブリを退治したことを友だちへのメールに「床と接吻させてやりました」と書いたのですが、受け取った側は読んで「ハァ?」(中川家風)と思っただろうなと思います。苦笑

話のスケールは壮大、にも関わらず個々の描写がとても詳細で丁寧です。なので、夢中になって読んでしまうのかもしれません。

それぞれの星(国)の政治的成り立ちや立場、思惑、また登場人物たちの人となりを、人によっては生い立ちから非常に詳しく魅力的に表現しているので読み応えがあります。人を説明するのに「パン屋の2代目」と例えるのは本作以外では知りません。笑

その詳しさゆえ多くのエピソードがあり、読後数年経った今、私は話の大筋な流れよりも、各所の挿話のほうを印象深く覚えていました。

非常に多くの人物が登場しますので自分に似た人がいるかもしれませんし、様々な視点からの人々の思考や生き方も見られます。また、戦術や政治に興味がある方はそちらの展開や推移も楽しめるのだろうと思います。

本作のファンはそれぞれ好きな登場人物がいると思うのですが、それを披露しあうだけで時間がすぐ過ぎそうです。ちなみに私はポプラン、結婚するならミッターマイヤーです。なんて話すだけでその人の性格がわかってしまうかもしれません。

本書は、現実に似た宇宙の星々で多くの人の生き様を見せてくれる友人です。

谷川俊太郎『定義』

石井桃子さんは、子どもに歯ごたえのある本をすすめていらっしゃいましたが、この本は私にとって歯ごたえがありすぎて、歯が折れてしまうタイプの本です。

新品が売っていなかったため、古書を購入。定価の3倍程しましたが、どうしても読みたくて買ってしまいました。

私には非常に難解な詩の集まりです。

ところで、しばらく同じ文字を見つめていると、それが文字だという認識のタガが外れてわけがわからなくなる(私は「む」や「ぬ」で時々起こります)現象を「ゲシュタルト崩壊」というそうです。

同様に、本を読んでいるうちに自分の読解力が崩壊していくような気になる本があり、本書もそのひとつです。

ただ、わからないということは悪いことではないと思います。なんでもわかってしまっては本を読む楽しみが少なくなる気がします。わからなくても味わえればそれもまた楽しみになりましょう。

余談ですが、最近は古典の「図解」などと銘打った解説書がたくさんあるようです。ただそれを読んだとしても、その解説者の読み方をなぞるだけというか、もっと言うと解説者に読まされている気がして、私は食指が動きません。好きに読ませてけろと反発してしまうので。自分の解釈と比べる目的で読むのは面白いかもしれません。

もちろん、難解な本は時に不安を感じます。だって、読解力が崩壊したような気になるのですから…。例えば、丸山真男『日本の思想』を読んだときは「読んでいるのにぜんぜんワカラナイ!」と思いました。一読したあともワカラナイのですが、また読もうと思っています。わからなければ繰り返し読む。筋力トレーニングと同じ感覚です。

「崩壊」だと、なすすべもなくやられる感じがするので能動的にとらえて、こういった本を「読解力の破壊と構築本」と勝手に分類しています。(たしか金城一紀作品の中にこんな表現があった気が)

本書の分類で長くなってしまいましたが、前回の友人本、田村隆一『詩人からの伝言』で「なっ」がたくさん使われていたのを読んで、本書の「な」という詩(というか散文詩)を思い出しました。今のところ、やはりよくわからない詩なのですが、印象に残っています。

「りんごへの固執」「世の終りのための細部」が面白いです。今のところ。

私自身の好みかというと、実はそうではありません。何度も書きますが「読解力の破壊と構築本」なのですから、普段の読書よりエネルギーが必要です。それでも読みたいと思うし、時々これらの本を読むのも楽しいものです。

ただし注意点がありまして、真剣に取り組む価値のない本でこれを行うと、単なる読解力の破壊のみで終わってしまう危険性があります。

では、どうしたら取り組む価値のある本が見分けられるのか。

古典ならば、まずハズレはないと思いますし、たくさん本を読んでいると鼻が効くようになるとも思うのですが、もうひとつは「この人だったら信頼できる」と思える人が紹介(解説ではなく)している本かと思います。

私の場合、この本を読みたいと思ったきっかけは金田一秀穂さんのオススメ本として紹介されていたからでした。上述した『日本の思想』も、著書の中で金田一先生が、これを読んだことのない新聞記者について先生にしては厳しめに評していらっしゃったので、気になり読んでみようと思ったのでした。

もちろん、実際に読んでみて「まだ私には大人っぽいみたい」(大人ですが)、などと思う場合もあるし、ことによると「この人だったら信頼できる」という意見が変わってしまう場合もあるかもしれません。いいのです。とにかく読んでみて読もうかどうかを自分で判断し続けるのが大事。

本書は、『月刊日本語』(現在休刊)の2010年12月号に載っていた金田一先生によるブックガイドにおいて、紹介されていたのです。以下、本書紹介文。

 

学から離れて、言葉そのものへ。現代日本語の最高の使い手である詩人が、言葉と言葉以前のものとの格闘を、そのまま記録している。言葉に何ができて何ができないか。私たちの代わりにやってみせてくれている。とてもありがたい。

 

以前少し触れたことがありますが、私は、このブックガイドにおける金田一先生の語りかけを読んで、読書がもっと好きになりました。おそらく、この文章は書籍化されていないのではないかと思いますので、なんだかもったいない気がしています。本当は全部抜粋したいですが、以下一部。

 

本を読むのは、はじめは難しいかもしれない。ここで紹介した本は、どれも少々難しい。谷川さんの詩集も、めずらしく難解であるかもしれない。しかし、あきらめずに、ゆっくりと読んでいただきたい。時間をかけることを恐れることはない。本は待ってくれる。本はページの上でいつまでも同じことを語り続けているので、変わらない。いくら時間をかけてもいいのだ。

現代はあまりに忙しすぎて、早ければ早いほどいいと思われているけれど、そういう暮らし方に疲れている人は多分とても多い。本は生きている人と違って、その寿命は永遠である。しかも裏切らない。ゆっくりと時間をかけて、書かれていることを消化すればいい。人はそれぞれ違うけれど、個人差に対応してくれる。難しい部分は飛ばしてもいい。楽しめるところ、おもしろいところだけ読んでもかまわない。そういうことをされても、人と違って本は決して怒らない。

 

会ったこともない方が書いた文章を通して新たな本と出会える。面白い縁です。

おかげで、読書がもっと好きになりましたし、本書にも出会えました。

まだ読み続けているところで、本書の内容について私が語ることは特にありません。

面白い友人の一人で、楽しく気長に読み続けるのみです。

本書は、谷川さんの言葉との格闘を見せて、読解力に刺激を与えてくれる友人です。