多くの人が読書について書いている。
本好きが書くため、多読を進める意見が多いが、様々な視点からの意見もあり面白い。
例えばショーペンハウエルは、多読の危険性を説いた。
読書好きによる様々な意見がある中で、多読を当然のこととしていて、且つ、読書について普遍的に読める内容だと感じたのが本書だ。
題名は簡潔ながら、書かれている内容は盛りだくさんだ。下に多読についての意見を引用する。
P10
濫読の害という事が言われるが、こんなに本の出る世の中で、濫読しないのは低能児であろう。濫読による浅薄な知識の堆積というものは、濫読したいという向う見ずな欲望に燃えている限り、人に害を与える様な力はない。濫読欲も失って了った人が、濫読の害など云々するのもおかしな事だ。それに、ぼくの経験によると、本が多過ぎて困るとこぼす学生は、大概本を中途で止める癖がある。濫読さえしていない。
努めて濫読さえすれば、濫読に何んの害もない。寧ろ濫読の一時期を持たなかった者には、後年、読書がほんとうに楽しみになるという事も容易ではあるまいとさえ思われる。読書の最初の技術は、どれこれの別なく貪る様に読む事で養われる他はないからである。
低能児…。苦笑
余談だが、2020年の毎日新聞社が行った『読書世論調査』によると、普段から書籍(単行本、文庫・新書本)を読む人の割合を「書籍読書率」としていて、その書籍読書率は45%、読まない人は51%だそう。
氏曰く、濫読(多読)はよし。
さらに、本書には「読み方にも技術が必要である」と、読書のやり方、工夫について、親身に惜しみなく書かれている。
一部をあげると、「ある作家の全集を読むのは非常にいい事だ」と書いてある。
これはやっている人が多いのではないだろうか。作風が好きだったら「もっと読みたい」と思うはずだ。
P13
小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方をして了うと、(中略)ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるという様になる。
一方的でも、受け取る読者の感覚として、本も本を通しての作家も、知人(もっと親しみをもてば友)だと感じる。
他の読み方の技術として、「耳を塞いで冒険小説を読む子供の読み方」からの進歩が必要だと書いてあった。
もう少し氏の言葉を足すと、「もちろん、こういう魅力がない小説は小説とはまず言えないのであるが、読者はこの魅力以上の魅力を小説から求めようとすることが必要だ」とのこと。
これは、最初に少し触れたショーペンハウエルが指摘した多読の危険性(読書は、自分にかわって他人にものを考えてもらうことであるから、勤勉に長時間たくさん読む人ほど、「しだいに自分でものを考える力を失って行く」という事態が生じる)への具体的対策となるであろう。
この読む技術について、もう少し詳しく書かれている箇所を引用すると、
P53
いろいろな思想を本で学ぶという事も、同じ事で、自分の身に照らして書いてある思想を理解しようと努めるべきで、書いてある思想によって自分を失う事が、思想を学ぶ事ではない。
本に限らず、人の場合も、誰かに狂信や妄信やらしてついていくと危険だろう。その都度、自分のこととして考えることで自分を守れるはずだ。
ここまで挙げた読む技術はほんの一部である。最初にも書いたが、本の読み方の他に、文章の書き方、文化についてなど、小さな本に内容が盛りだくさんである。
別の言い方をすれば一度読んだだけでは、とてもつかみきれない内容が書いてある。だが、自分にとって必要なことが書いてあると感じるので、しばらくしたらまた読もうと思うのだ。
本書は、語りかけてくるように書かれているものが多く、年上の頭のいい人と話している感覚で楽しんだ。(実際に対面で話すのと違い、本ならこちらが相手の言ったことを理解するための一時停止や中断が可能である)
本書は読むたびに何か気がつくことがある。時おり手に取り楽しんでつきあいたい友人だ。