橘芳 本との交友

読んだ本の整理を兼ねた本との交友録です。

奥田英朗『ガール』

昨年多忙で心身が崩れそうだったとき、本に助けられたのですが、奥田本にもたくさんお世話になりました。

『オリンピックの身代金』を読んでいたときは、休憩時間が終わるギリギリまで読もうと階段で立って読んでいて、通りかかった上司に「何やってんの」と驚かれたこともありました。

以前、奥田さんは自分の主義主張を小説には入れない、とインタビューでおっしゃっていましたが、著書からは日本への愛を感じます。(例えば、上述の本や『罪の轍』や『リバー』などの所々で)

本書は、5つのお話があり、主人公はみな働く女性で、『ナオミとカナコ』もそうでしたが、心理描写を読んでいると、奥田さんって女の人だったのかしらと驚きます。

出版されたのが2005年とのことで、今と状況が違うのは当たり前なので、当時に思いを馳せて読みました。

特に本の題名になっている「ガール」を楽しく読みました。登場人物の一人「お光」さんが素敵です。

私がたまに購入する雑誌は『ナショナルジオグラフィック日本版』か、『表現者クライテリオン』なので、奥田さんのファッション知識に脱帽しました。

マンションを買おうとする女性が、妻子を養う男性社員の気持ちを理解したくだりは、若者がおじさんを見る際や、昨今の日本におけるジェンダー問題を考える際に必要な視点のひとつではないかと思いました。

現実は難しいかもしれませんが、男も女もそれぞれ頑張っているのだから、お互いがうまく関係をつくっていければいいんだなぁ(山下清風)と思います。

ところで、昨今、フェミニスト主張をされている40代50代の女性作家たちの文章を時々目にします。単行本の表紙がお洒落な感じの。私が気づいたのが遅いだけで以前から存在していたのかもしれませんが。

先述の奥田さんとは違い、作家の主義主張が小説を通して伝えられています。

何人かの小説やエッセイの文章を読んでみて、なぜかその内容に「同意できない」と感じることが多いです。

彼女たちが文章内でよく使う「私たち」という人称の中に、私は入っていないような気がします。

実際、ゲノムも染色体の数も同じですが、彼女たちを別の生き物のようだなと感じ、どちらかというと羊や牛のほうに親近感を抱いてしまいます。(山羊はアグレッシブにぐいぐいいくところが私と違うけど山羊も大好き)

だからこそ、生態を知るために積極的に読むようにしています。

正直言うと時々読むのがしんどいけれど、何が疑問なのかを言語化してスッキリしたいのです。

そうやって自分と違う考えを認識・分析して、理解をする練習をし、実生活で役立てたいと思っています。

違う考えの人を否定成敗しないよう気をつけて、でも、何が引っかかるのかを明確にしたい。

この作業は自分自身について知ることにもつながると思います。

それで、今回わかったかもしれないことがあります。

例えば本書『ガール』の登場人物はみんな会社組織に属していて、その中で四苦八苦しながら問題と対峙していました。

一方、小説家やコラムニストである彼女たちは社会という大きなフィールドに属するという立場で明確な相手(名前のわかる誰か)に向かってではなく、彼女たちのイメージする「男性たち」と対峙しているのではないかと気がつきました。その「男性たち」を、私が共有できていないがために、「同意できない」と感じるのではないかと。

そして、実体のない、イメージ上の男性たちとは話し合いができません。

例えば、本書の第一話「ヒロくん」では、同じ部署内の年上だけど自分の部下である男性社員が相手でした。

主人公の立場で考えると、会社内の相手を一方的に批判、糾弾しては物事が進みませんから、それはできません。自分が孤立する恐れもあります。でも、相手がいるからこそ進展がある。

何か問題があって、現状を変えるためには、お互いの言い分を同じところに上げたうえで、時間をかけて根気よくすり合わせていかなければならないと思います。一人ではできず、とっても難しいことです。

時にはぶつからなければならず、しかもすぐに解決せず、ある時はどちらかが屈して辛い気持ちになったり、膠着したりする場面もあるでしょうが、仕事や作業を進めるために、我慢や自制をしつつ落としどころを探していくことになるかと思います。

これは家族という組織でも同様で、上記のすり合わせができなければ家族関係の悪化につながると思います。

意見をすり合わせる際には、双方が同じ目線に立つ必要があるのだと思います。

しかし、彼女たちの言い分を読む限り、対立構造、つまり「不利な状況に立たされている私たちVS自分より有利な立場にいる強い男たち」というようなヒリヒリした気持ちが感じられます。それを察した相手は引いてしまうのではないかと思います。

例えば、「団結せよ女たち!私たちは負けない!」という姿勢では、相手に勝つまで終わらないのでしょうし、勝ったとしたら立場が逆転するだけで、問題の根は変わらないのではないかしらと。

そんな団結と糾弾は、なんだか小学校のときに目にした、掃除の時間に掃除をしない男子たちに「ちょっと掃除しなさいよ男子ぃ!」と迫る女子たちの姿を連想させます。この場面に「先生に言いつけるからね!」の先生も登場するとすれば、欧米のいわゆるLGBT系の考えを推進する人々といったところだろうかと思います。

そんな欧米から輸入された、「マンスプレイニング」「ミソジニー」「ルッキズム」「ポリティカルコレクトネス」などの片仮名言葉が彼女たちの文章には多用されているのですが、初見の私は「おお、なんじゃそりゃ」とネット検索しなければ(「ミソジニー」を辞書で引くと「みぞしだ:溝羊歯」が出る)彼女たちの主張がなかなか理解できませんでした。日本で、人を巻き込む大きなムーブメントを目指すならば、今のままでは大勢の人の共感を得るのは難しいと思います。ただ、ある作家によると、私のこのような対岸の火事的な考えは、つらい思いをしている当事者ではない、「恵まれた人生を送っている」人の考えのようです。私にも考えさせておくれよう。

片仮名言葉といえば、吉村昭氏が書いていたことを思い出します。以下引用。(メモだけして出典本失念!エッセイより)

 

外国語を日本語に翻訳する作業を、怠惰のゆえか日本人は完全にやめたらしい。今後輸入されるものはすべて外国語どおりに呼ばれ、外国語を片仮名でしめす言葉がはんらんするだろう。魔法瓶はすでにジャーとなり、ポットになった。いい名称なのに惜しい。国語を軽視する日本人の植民地的気質が、こんなところにもあらわれている。日本人は勤勉だというが、こと国語に関するかぎりきわめて怠惰だという以外にない。

 

これはどんな分野にも言えることで、ITやビジネスについての話題も英語の言葉が多く、私は理解が追いつきません。もちろん、自分で調べますが、当事者や専門家が、日本で「この概念を広めたい」と思うのであれば片仮名語を借りて使うのではなく、日本語で理念を説明できるように手間をかけることを、どうかお頼みしたいものです。そうしないと、わかっている人しか議論に参加できないし、参加しても、それぞれが解釈する片仮名語が行き交うだけになる恐れがあり、深い議論ができなくなるはずなので。

(※『日本の歪み』内で養老孟司さんが言っていた、戦時中に敵国語のカレーライスが「辛味入り汁かけ飯」になったというような、「英語の言葉をなくせ」と言っているわけではなく、人口に膾炙するような翻訳作業が必要という意味。とはいえ、私は上記の「辛味入り汁かけ飯」の名前が好きです。笑)

と、気づいたら本書の内容からフェミニスト主張を書く女性作家や片仮名言葉に話題が向かっていました。

これらは自分でもまだ考えている途中のテーマなので、これからも、たくさん読んで考えていきたいです。

 

『ガール』を読んでいる間、何度かヒヤヒヤしたけれど、登場人物がみんな前向きで面白かった!

本書は、大企業で一生懸命働く女性の気持ちと奮闘を想像して、元気をもらえる友人です。