橘芳 本との交友

読んだ本の整理を兼ねた本との交友録です。

(2)『Can-doで教える 課題遂行型の日本語教育』来嶋洋美、八田直美、二瓶知子

前回、国家資格化にあたって教え方を変えなければならないことの理由と根拠が曖昧だと書きました。

長々と書いたものにお付き合いくださる方に感謝を申し上げます。ありがとうございます。

ところで、本書のAmazonレビューを見ると、無言レビュー以外は全部が星5つか4つです。ちなみに、ほぼ全部のコメントが「Vine先取りプログラムメンバーのカスタマーレビュー」とのことで、これは無料で読んだ人たちの意見なのかしら。

本ブログでは、それらのレビューとは視点が違うので、何かしら役立てれば幸いです。

今回は本書Can-doを使った教え方が、私の今まで教えてきた日本語学校において不適当だと思う理由を挙げます。

4つあります。

(1)学習意欲が低い人に対して適していないと思うこと

例えば教室で、私が「~について隣の人と話してみましょう」と言ったら、「アァ?!」とこちらを見上げる人、「日本語わかりません話しませーん」と茶化して妨害する人、隣の人と母語で関係ないおしゃべりを始める人、夜勤明けの眠気に耐えられず私に白眼を向ける人、眠気に負けて突っ伏して寝ている人、ひざの上に置いたケータイを触って聞いていない人、隣の人と話すのを断固拒否する人、などの実際に過去にいたバラエティ豊かな学生たちの顔が思い浮かびます(笑)。

もちろん、全ての学生が先述したような人たちではありませんが、日本語学校ではアルバイト意欲は高いけれど、学習意欲が極端に低い人が存在します(特に学生増員後)。また、勉強の仕方がまるでわかっていないような人たちもたくさんいます。

「学習者が自律的に自分のしたいことを目標として設定する」ことができない人が多数存在する場合、本書の教え方は成立しません。

また、1年経っても平仮名片仮名が認識できないといった人が時々いますが、そういう学習における認知機能が高くない人は、本書の授業の形をなぞれたとしても、最終的に日本語能力が身につかない恐れがあります。

本書の教え方は、学習意欲をある程度持っている学習者向けの教え方だと思いますが、そういう人は、どんな教え方でも、独学でも伸びていける人たちです。教師が学びや気づき(このフレーズ本書頻出)をお膳立てせずとも、自ら学ぶし気づきます。それができない人を、この教え方で伸ばせるのかどうかが心許ないです。伸ばせないのは「現場の教師に問題がある」とみなされそうで、恐ろしく感じます。

そして、本書にある、教師の「授業設計」なるものにより、学習者の自律的学習が可能になるのかどうかがわかりません。ロボットのオペレーションではあるまいし、簡単にできることではないはずですから。

もっと言うと、本書に多用されている言葉「~するように促す」行為は、自律的学習に反する「~させる」行為と紙一重というか、言い方が違うだけで同じ意味なのではないでしょうか。教師の進行次第なのかしら?その進行法を国家資格取得の¥17600の講座で教えるとか?勉強しない学生に学習を促せるような超高度テクニックを教えるのであれば、値段相当の価値がある講座だと思います。

 

(2)現状の日本語学校における目標設定「日本語能力試験合格」が否定されていること

P11~14にかけて、「試験合格」ではなく「コミュニケーションができること」のほうが学習者の目標なのではないか、と書いてあります。

もちろん会話能力は必要ですが、現状日本語学校卒業後の進学先や就職先から求められている条件は、日本語能力試験の合格です。留学ビザで日本語学校にいられるのは最長2年で、その間に日本語学校専任講師は学生たちの新たな在留資格を得る手助けをしなければなりませんから、日本語能力試験合格が教師にとっても学生にとっても勉強の目標となっているのが現状です。ちなみに、特定技能ビザができ、国際交流基金が日本語基礎テストというものをつくっていますが、N4以上に相当するレベルのテストはありません。特定技能の求人を見ると、N3以上を持っていると給与や待遇がよくなっています。

この現状は変わらないのに、目標は「学習者が日本語を使ってしたいこと」だ、「会話能力」だ、と設定すると現実との齟齬があるため当然現場は混乱し、どちらにも対応しなければならなくなって手間が増えます。

従来の教え方では会話能力が伸びないと言うのであれば、会話の場面をより実践的にし、会話練習量を増やせば解決できることなのではないでしょうか。

 

(3)文字軽視の授業に思えること

本書には初級レベルの授業と評価の仕方が説明されています。日本人と同様に大学に入学したり、就職したりするためには高度な日本語の読解力や文作成力が必要でしょう。それには、多くの漢字、文型、言葉が要るはずですが、本書の教え方でそれらが身に付くのか、定着できるのかどうかがイメージできません。

特に気になるのが「文字」の扱いの軽さです。日本語を使うにあたって重要である漢字ですが、この教え方で多くの漢字が定着するかどうかは、やはり学習者の意欲が強く関わってくる気がします。つまり、練習嫌いな人は使える漢字が増えないのではないかという懸念があるのです。

学習者には嫌われていますが、「日本の漢字」こそ、諸外国語にはない特色であり、普段から漢字を使う中国人学生からも「読み方が多い」と文句が出るくらいです。漢字は重要な日本文化のひとつだと思います。余談ですが、私は漢字テスト採点中「、」がないとか、「はね」「はらい」などが少しでも違うと×にしている時にふと、多くの日本人が正確さを求めたり、細部にまでこだわったり、真面目であったりする行動は、子どもの時からのこの学習過程で育まれるのではないか、なんて思ったことがあります。

この日本の漢字をアルファベットのように扱い、機械的に仕分けようとするのは時間の無駄ではないかと思います。ひたすら身につけるしかないと思います。どうか既存の漢字を削ることがないようにしていただきたいものです。

真情を吐露すると、私は将来日本語が外国人のためにどんどん簡略化されていくのではないかと心配しています。例えば、「やさしい日本語」は、きっと災害時などに役立つのでしょうが、「一体世界のどこに自国の言語を易しく変えて外国人に提供する国があるのだろう」と疑問を覚えます。よく考えると、なんだかおかしな状況なのです。我々は一度でもそんなサービス(奉仕)を諸外国から受けたでしょうか。ちなみに、経団連がこの「やさしい日本語」の普及を日本語業界に求める提言をしています。なぜなのか、の理由は容易に想像できるかと思います。「やさしい日本語」を学んだ外国人が「やさしい日本語」以上の日本語を身につけることは難しそうだと思いますが、その程度の日本語能力でいいと思っているなら気にならないことだろうと思います。

どんなものでも一度簡単になったら、元に戻ることはありません。もし、このように日本語を簡単にする動きを日本人である我々が意図的につくるのならば、「言葉は変化していくものだからしょうがない」などという日本語についての考え方は、楽観的かつ無責任で、自国の言語を軽く扱う意見だと思います。

日本人による日本語破壊にもなりかねません。

 

(4)ただでさえ人手不足、業務過多の日本語学校専任講師には、人員と時間を必要とするテストと評価のやり方は不可能だと思うこと

 

P115 以下抜粋

クラスの評価は点数で出すのではなく、「できる」と言えるかどうか、なぜそう言えるのか、レベル毎の全体的な尺度や言語活動(Can-do)、言語能力のカテゴリーの記述をよく読み、ルーブリックをほかの教師とともに検討し、判断基準を共有する必要があります。

 

つまり、専任講師はCan-doマニュアルをよく読んで、上記の評価方法を他の講師と検討し、判断基準を共有したうえで、テストを作成、実施しなければならなくなります。分担してではなくみんなでしなければならず、当然会議が増えます。さらに、担当クラスの非常勤講師に、上記の共有をしなければならない場合、理解していただく時間と非常勤講師の拘束時間給もかかります。学校によっては非常勤講師にも検討会議に参加してもらわなければならなくなるかもしれません。

毎学期どの作業工程においても無限の時間が要求されるのが想像でき、とても非効率に感じます。

本書にある会話テストの例には、1クラスの人数が12人とありましたが、大体の日本語学校は限度いっぱい(20人)学生がクラスにいることが多いと思うので、その人数分、テストに時間がかかることになります。また、1人がテストを受ける間にグループワークをする時間が設けられていますが、先生不在だと無法地帯になる恐れがあるので、その教室にテスト監督以外の先生が必要になるでしょう。その間、教室に配置される先生は自分の仕事ができず、残業確定。非常勤の先生にお願いするとしても、その先生にグループワーク進行についてなど事前の説明をするのに時間を要し、残業確定。過労死する専任講師が出ないことを祈るばかりです。

このテストと評価だけではなく、従来の教え方を一変させなければならない現場の負担の大きさは計り知れません。これまで蓄積してきたテストや教材もパーになります。

そして、おそらく日本語学校がちゃんと教えているのかどうかをチェックするような監査も(by文科省文化庁?)入ることでしょうから、報告のための書類作成などの業務が生じることでしょう。

 

本書には、言葉を選んで素晴らしい教育方法が書いてあるように見えますが、典型的な「マニュアル教育」に感じました。

この教え方を推進する主体的な存在は見えませんが、外国人材を育てることが求められているがためにマニュアルを普及・実施させようとしているのではないか、と感じます。きっと、文部科学省などが「Can-doがこんなに普及して多くの教育機関で実施されています」といったふうに「やった感」も出せるでしょう。

 

脱線します。

「外国人材」という言葉から、少し言及すると、「特定技能制度」も謎深き世界が広がっています。

在留期限が5年の特定技能1号ビザを得るためにはN4レベルの日本語試験と、働く専門分野の試験に合格しなければなりません。専門分野の試験の実施機関はバラバラで、試験料もピンキリで、例えば昨年私が調べたとき、介護¥1000、食品外食¥8800、と値段設定が謎でしたし、試験の時期、実施回数、申し込み登録サイト、試験料の支払い方法などがそれぞれ違うので非常に複雑難解でした。日本人のサポートなしに受験は難しいと感じました。 学生を手伝って申し込み手続きをしていたとき、学生の一人が「今は日本で働きたい外国人が多いから試験があるけど、少なかったら試験はなくなる」と看破していました。

そして、特定技能1号ビザで日本に5年しかいられないのが嫌な場合は、日本語学校卒業後に進学し、どこかに就職ができれば解決なのです。

どういうことかというと、日本の大学、専門学校(2年以上)に通い、就職の内定が得られれば、在留期限に上限がない特定技能2号ビザ「技術・人類・国際ビザ(技人国ビザ)」が取得できる、というビザのレベルアップルートが存在します。つまり、国での学歴が高卒で特定技能2号ビザが取れない、でも5年だけで帰国するのは嫌だという留学生は、日本語学校卒業後に、とにかく進学すればいいのです。たとえどんなに素行の悪い人であろうと、どんな学校であろうと、学費を払えて進学しその後就職ができれば特定技能2号のビザで日本に永住できるチャンスを得るのです。

これが移民政策ではないと言えるでしょうか。

見逃してはいけないのは、外国人留学生は、日本の労働市場だけではなく、日本国内にある定員割れしている大学や専門学校といった多くの教育機関にとっても、必要不可欠な存在であるということです。名前を聞いたこともないような、日本人学生がほぼいない、外国人留学生だらけの専門学校や大学の多いこと。日本国内に外国人がつくっている学校も多々あります。日本語学校の卒業生の一人によると、専門学校の中には、先生が学生を全く注意しない学校があるそうで、「誰も勉強しない。日本語学校の方が厳しかった」とのことでした。そうでしょう。注意をせずに無視するのはとても楽なことですから。

私の任務は、どんなに素行の悪い学生であろうと、どんなに得体の知れない学校であろうと、学生が新たな在留資格を得られるように、願書作成から面接練習、合格後に学生が入学金(高額)を納入したり、入学後の学費ローン組手続きをしたりするのを手伝う(←進学先から求められる)ために授業の後で銀行に同行するなど、手厚くサポートすることでした。専門学校で学生が履く「上履きの申し込み」まで手伝ったこともあります。つまり自分では申し込めないような学力の人が進学している、ということで。

こんなことをしていて日本は大丈夫なのだろうか…、と暗澹たる気持ちになりました。

私は自分が真面目に業務に取り組むことで、これに加担しなければならず、この業務により日本語教師を続ける気力がだいぶ削がれました。

今も、業務である学生たちの進路指導を必死でサポートしている専任講師が日本国内の現場にたくさんいらっしゃることでしょう。

「どうか、ご自身の健康を最優先で御身大切になさってください」と申し上げたいです。

在校生に新たな在留資格を得させなければならない日本語学校と、進学先の専門学校や大学は持ちつ持たれつの関係であるのが現状です。留学生の学費納入により延命している教育機関が多いということは、この仕事を辞める立場でなければ口にしにくい、アンタッチャブルな領域だと言えるでしょう。

たくさんいらっしゃる社会学者の方々に問いたいと思っているのですが、「外国人に頼らずに、日本を維持していくことは不可能なのでしょうか」このままでは国があっても、将来日本に日本人がいないという事態になりかねません。

(次回で最後です)